給水所にて水を手に入れる事が出来た私。
その帰り道にトイレに行きたいと思い、公園へ。
世紀末でした・・・
私の住んでいたところは一部は水道が通っていて、一部は断水になっていました。その公園は断水だったんでしょうね・・・
まぁ、便器は・・・やりっぱなしでした。
現代っ子な私は飛び出して家へ帰宅。その途中で公衆電話を発見!!
私「・・・確か、公衆電話は阪神淡路大震災で使えたと聞いた事があるなぁ・・・」
と思い、使用してみたところ使えた。(硬貨を入れましたね。その時は硬貨がなくても使えたはずなんですが・・・それも謎)
私「誰か出てー!小銭もそんなに無いんだよー!誰かー!なけなし100円玉だよー!」
実家、全く出ず!
私「何でじゃ!!」
と諦めきれずに再度電話。時間は8:00ごろ。
コール音がなる・・・ガチャっ
私「!? もしもし!!」
父「何や。お前か」
私「何やとは何だ!? もっと早く出てよ!!」
父「歯磨きしていたんだ。すぐに出られるわけないだろう。無事なのか?」
私「うん! 無事だよ!公衆電話からかけている!」
父「ん。分かった。(ガチャっ)」
ツーツーツーツー
私「・・・え?切るの?」
通話時間数十秒、使用硬貨100円玉
涙目になって部屋に帰りました。後日、この時のことを聞いてみたら母は犬の散歩だったそうです。当時のテレビで私のいるところは被害が少ないというのを知っていたらしく、心配は心配だったが生きているだろうと思っていたそうです。
犬の散歩から帰ってきた母に父が一言。
父「電話あったぞ。無事だそうだ」
母「!?お兄ちゃん!? 携帯電話つながったの!?」
父「いや、公衆電話から。つい、さっきかかってきた」
母「・・・つい、さっき?? え?本当にさっきだったの? どのくらい電話したの?」
父「無事か?と聞いて、無事と答えたから切った」
母「亜3ん梅雨jk;アイエういう!?(発狂)」
大分、母は父に怒ったらしい・・・
ショボーンと涙目になって部屋に帰った私・・・
私「なんか食べよう」
という事で、何かを食べた後
私「トイレどうしよう・・・う◯こしたいけど、1回分しかトイレは使えないよなぁ・・・」
というトイレ問題に直面・・・とりあえず、一回使った後に寝不足だったためもう一度寝る。
起きた後にトイレ問題を考えた結果・・・
私「川の水をトイレに流せばトイレは使えるか?」
だった。バケツを片手に川へ。昼の12時ごろ。
足をビチャビチャにして何とか川の水をゲットした私は意気揚々と部屋に帰った13:30ごろ!!
停電解消!!
私「今かよ!!」
唸る家電!戻ってくる水!!
安堵しましたねー・・・
私「いやぁ・・・明るい・・・。停電が解消したということは携帯の電波も復活したかな!? まずはテレビをつけよう!!
・・・何じゃこりゃー!!
と情報が全く追いつかなかったです。津波被害の地域には私の友人がいたりもするので、本当にてんやわんやでした。
私「け、携帯の電源を・・・」
電源を付けたら電波が繋がっているのを確認!すぐに母へ電話!!
コール音が鳴る・・・
母「はぁい」
私「あ、私です」
母「無事!?大丈夫!?」
私「うん、うん」(私、この時謎に涙がポロポロ流れました。多分、張り詰めた緊張が一気に解けたんでしょうね・・・)
母「良かったぁ。本当に良かった。帰りたいよね?でも、今色々調べてもこっちに帰る手段がないみたいなの。じーちゃんもばーちゃんも無事なんだけど、あそこに行く手段もないの。何とか調べるから、それまで頑張ってね」
私「うん、うん・・・恐かったよ」
母「そりゃ、恐かったろうねぇ・・・。食料は足りる?大丈夫?」
私「・・・謎なんだけど、地震の前日に買いだめしてたの異常なぐらいに。冷蔵庫、開けないようにしていたら大丈夫」
いや、これが本当に謎だったんですがあり得ないぐらい買い溜めしてたんです。一人だったら2週間ぐらいは買い物せずに過ごせそうな量でした。
母「良かった。じゃ、帰る手段が見つかり次第に連絡する!すぐに手配するから!」
私「分かった・・・」
まぁ、ポロポロ泣いてましたねぇ・・・。その後、ばーちゃんにも電話してポロポロ泣く。お互いに無事であったことに安堵した。
そして、電話して落ち着いた後に改めてテレビをみる。
感想は地獄絵図
どこのチャンネルにしても情報は同じもの。CMもずっと同じもの・・・頭が狂うし、一人でいてはダメだと思った私は・・・
私「先輩、無事ですか?良かったら、当分一緒にいませんか?」
先輩「いる!」
私「無事?食料が山のようにあるんだけど、持ち寄って一緒に住まない?」
友人「住む」
という感じで、同居人を作りました。当時の彼女は母親がいたので、そちらは定期的に連絡を取ったり、会ったりしました。
遠方に住んでる先輩も車を使って様子を見にきてくれたりと、何とか生き延びていました。
そして、町ではもう一つの問題が起こりました・・・
物資不足
とにかく、食糧も含めて物がありませんでした。あったとしても数量を制限されたりと大変でした。この時に3人で持ち寄った生活必需品や食料があって良かったなぁと思いました。
震災発生から・・・確か5日目だったような、母から連絡があった。
母「帰れる手段を見つけた!!」
私「!?」
母「明後日に秋田から飛行機が名古屋に向かうのがある!それに乗れれば帰ってこれる!どうする!?今、一緒に生活している人がいるんでしょ!? 決めるなら今決めたほうがいい。すぐにチケットを買う」
私「・・・」
悩みましたねぇ・・・友達と先輩を置いていっていいのか?と
先輩&友人「帰れるんだったら帰ったほうがいい。お前のおかげで食料や生活に困らなかった。本当にありがとう」
そして、帰ることに。残っていた食料と生活必需品を残る先輩と友人に渡して私は秋田経由で実家に帰ることに・・・
秋田にはどうやって向かったのか正直記憶があやふや・・・多分、しんどかったのか記憶から抹消している?とりあえず、行けましたね。
母「良かったぁ・・・本当に良かったぁ・・・」
私「あぁ・・・帰ってこれたよー・・・」
となりましたね。そして、実家に帰り、買い物しに行った時にびっくりしたのは・・・
物が溢れている・・・
あの帰る直前の東北の町のお店には何もありませんでした。そして、人が沢山いる・・・こんなに同じ日本で違いがあるのかぁとは思いませんでした。
自分のいる大学もどうなるか分からないので、とりあえず春休みだという事でゆっくりしていました。
そんな時に同じ大学の東京に帰省していた友人から近況報告が来た。
友人「東京も計画停電があったりと大変で、こっちも水道が止まったり、物資がないところがあるんだよ」
私「そりゃ大変だ。今、実家にいるけどこっちは平和だよ・・・」
友人「東北みたいに凄く困っている!ってことはないんだけど、一番心配なのが水なんだよ」
私「え?そんなに?」
友人「俺はいいのさ。ただ、俺の兄貴に赤ちゃんが生まれたばかり、ミルクを今後も安心して飲ませられるかっていう不安があってね・・・」
私「・・・」
それを聞いた私は、母に友人の状況を説明して水を買いに
が、同じようなことを思う人、地震が起こったときのことを考えてなのか水が全然売っていませんでした。
母と何件も梯子して、水という水を買い集めて東京の友人へ送った。
友人「水が届いた!本当にいいの!?」
私「赤ちゃんが一番だよ!!」
友人「兄貴がお金を払うって」
私&母「いらない!赤ちゃんが1番!」
そんな友人とは今でもに濃い付き合いをさせてもらっている。その友人には非常にお世話になっていて、恩返しが足りないぐらい。本当にこのぐらいのことが出来て良かったと今でも思っています。
そして、3月いっぱいを実家で過ごし大学はいつから始まるのかね?と母と話していたら大学から連絡がくる。
お前らは4月からだよ!(3月末に連絡がくる)
私「狂ってるの??」と思いました。
何とかして間に合うように東北へ戻った。その頃には・・・まぁ、私が住んでいた町は幾ばくかの物資は回復していた。
でも、その後も大変だった。余震はあるわ、緊急地震速報が鳴り響くわ・・・
やってはいけないことかもしれませんが、私の今のスマホは緊急地震速報などが鳴らないようにしています。
もう、今でも聞いただけで体が固まるんです。
あの音を聞くと、何も考えることが出来なくなります。一度地震ではないですが、建物の火事を知らせる音の確認で、あの音が鳴ったんですが・・・固まりました。
硬直してしまい、動悸が起こり、呼吸がうまく出来ない。完璧なるトラウマですね。
それを目撃した上司に「なんか、君が一番驚いていたね」と言われて、自分があの音が苦手な理由を説明したら・・・
上司「・・・ごめんね。茶化したような感じになって。それは辛かったね」
と真剣に謝られてしまった。今は幾ばくかはマシになったが、今でも緊急地震速報の音(テレビも含む)、震災の映像、当時のCMを見ると心は穏やかではなくなります。
話は当時に戻って、大学も完全に復活したのはGWが開けた頃。私たちの学年はカリキュラムの都合上GW明けにするのは難しかったために4月からでした。
私は私だけの被害・・・(被害と言っても、停電や断水なだけで怪我をしたとかそんなのはないので、被害と言っていいのかわかりませんが)。ですが、沿岸に実家があった友人達は様々な被害がありました。
家が流された
流されてはないが、家も町も住めない状態
家族が死んだ
家族が見つからない
沿岸地域に実家があった友人のほとんどがこのように言ってました。中には「死にたいよ・・・」という友人も。が、その友人は他にも・・・「おばあちゃんが津波に巻き込まれて死んだ。遺体安置所で見つかったの。でも、誰が見ても「おばあちゃん?」という分からない状態だったのを歯医者さんが判別してくれて見つかった。見つかっただけでも本当に私達家族は良かった・・・」と泣きながら言っていた。
あの時の言葉、今でも忘れてないよ。
また、避難同棲していた友人は家が流されていないが津波被害にあったらしく、友人家族と卒業式の時に会った。
会ったと言っても、言葉を交わしたわけではないですが、私の顔を見た瞬間に深く頭を下げていただいた。
実はこの友人、かなりの変わり者です。しかも、女性でした・・・
そんな、やましいことはないですよ!?
同じ部活をしていて同じような仕事をしていました。正直なところ、女性とは思えない変人で、同じ仕事をしていた先輩を入れても何も問題の起きない方でした。
なので、家族からしたら連絡も取れなくて無事かも分からない娘が誰かと一緒に避難していたというのは、自分が親になってみて想像すると非常にありがたいことだったのかな?と今では思います。
あの震災から9年・・・今はコロナで世界は大騒動に。その為に、大きな慰霊祭は自粛に。
この日が来ると色々思うことがあります。実は、私、誕生日がもうすぐなんです。16日になるんですけど、当時も「自分の誕生日を祝ってもらっていいんだろうか?こんな時に・・・」と考え、実家に帰った両親にもそう言いました。
両親「そんなのは関係ない。そしたら、11日に生まれた赤ちゃんはどうなるの?一生、祝われないの?それは違うでしょう。誕生日はどんな日であろうと祝われないと」
と言われたのを覚えています。でも、それでも考えてしまいます。11日が過ぎたら私の誕生日・・・考えない日は来ないんでしょうね。
9年・・・長いような9年、あっという間の9年、でも、あの時の思いは風化していません。
あの日に見た夜空、感じた人の優しさ、そして、辛さ・・・忘れることがあるだろうか。
あの震災で被害に遭われ方々に、謹んでお見舞い申し上げます。
今回の記事は自分の記憶と思いを何かしらの形で残したいなと思って書かせていただきました。キャッシュレスとは関係ない記事になったことをお詫び申し上げます。
今、日本も含めて世界はコロナウイルスで大変です。でも、東日本大震災を含めて数々の震災を経験した日本が簡単に負けるとは思いません!
頑張れ日本!!
頑張れ世界!!
頑張れ地球人!!
という気持ちで今の現状を見ています。
一刻も早く、皆さんに平穏な生活が戻りますように・・・敬具